まなざしについて

 

 

 社会のどこにも居場所が無くなり、自室にひきこもった。学生を終えてすぐの事。足掛け三年、当事者としてのひきこもりを終え、そして数年が経ち、最近では社会に居場所を手に入れてしまった自分がある。


 

 壁がある。壁はそこに両側がある事を示し、双方にとって他者が存在する事を表す。”ひび割れ/隙間”は、まなざしを他者に向ける事をあらわす。しかしそれは必ずしも一方通行ではない。例えば、檻の中の動物もまた檻越しに人間にまなざしを向けている。


 

 「私」が、隙間から壁の向こうにまなざしを向けるとき、そこに内包される痛みに共感したいという思いがある事に気づくが、また対極的に、無自覚に発生してしまうまなざしの暴力性や搾取性の存在について自覚もする。人のまなざしは優しいものであり、同時に暴力性を帯びたものなのだと気づく。


 

 さらに、まなざしは一方通行ではない。まなざしを向けるその在り方もまた、まなざしを向けられる存在である。傷つけ、幻滅させてしまった彼ら(いつかの私でもある)から、私はまなざしを向けられているのだ。


 

 社会に生きるわれわれは、ひきこもりから見られている。まだ許されてはいないから彼や彼女は今日もひきこもりを続けているとも言える。


 

 背を向けるというまなざしも、またある。


 

 ひきこもりが一人でひきこもりになったのではない。社会の中でともに生きるわれわれのうちの誰かを、われわれがひきこもらせてしまった。幻滅され、背を向けられてしまった。その反省に至る事も部屋の外に居る者たち/社会にとって、関わりの再出発点に際し準備できることではないだろうか。


 

 ”不可視の部屋”を見る時、我々は自らの優しくて残酷なまなざしを知る。眼差しを向けれらている事にも気付くかもしれない。
 そしてようやく「声なき声」を想像し始める。