2018/10/23、横浜にて
困窮者を見つめるまなざしは、
寄り添いたいという”優しさ”でもあるけれど、
奇異なものを見たいという”暴力性"や"搾取性”も、
そのまなざしの振り幅の中に内包されている。
そもそも、「寄り添う」という意味の中にすら、
寄り添いたい側の”自己都合のお節介”の可能性が内包している。
時に、それは逆撫でになったり、暴力性や搾取性を持ちうる。
今回のプロジェクトでは今後、
「まなざし」に内包された様々な意味を直視し、批評的に取り扱いたいと思う。
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また、アートに携わる他の多くの者達にとって、
勧善懲悪の美意識に縛られた既存の”福祉アート”の在り方を越えていく必要があると思う。
当事者研究の「べてるの家」の活動や、
ホームレスダンスグループの「新人Hソケリッサ!」には、
それを乗り越えるヒントがあるのではないかと思う。
再近それら両者の活動知ったことで迷いが無くなった。
両者には”当事者の実態を見せ、ありのままに肯定する事”、
またそれを”どのように社会的価値にするのか”という点で大いに魅力がある。
当事者との同意や協働を経て、それらを高水準で行い、多くの賛同を生み出している。
ともすると見下しにすらなりえてしまう過剰な保護意識でもなく、
かといって、当事者が持つ記号性だけを横取りし、搾取をしているわけでもない。
そして、内向きな自己満足のクオリティでアウトプットされているわけでもない。
単なる正しさや一過性をも超え、新しい価値をクリエイトしている。
これまでの現代アートでは、
例えば健常者のアーティストが、
自分自身やアートがもともと持っている暴力性に無自覚なまま、
作品強度の追求のために、当時者を引っ張り出してきて、記号的に取り扱い、搾取し、裏舞台を隠す。
観る側も、事実までもが創作されてしまったその作品を評価してきてしまった。
もしくは、”みんな笑顔ならいいよね”と、健全さこそが美術なのだと誤解したり、
アートの可能性を矮小化し、視覚的に整った物だけを人前に出す。
そこでは笑顔になれない当事者の姿など、無いことにされる。
不幸を感じさせる空気はあってはならないのだ。
時には、感動作りのために当事者の輝かしさや、長けた能力だけが一側面だけ都合よく消費されさえする。
アートの中では、そういう偏った創作の方法が、永く取られてきたのではないか。
そうした矛盾を乗り越える方法について。
その辺りをこのプロジェクトでも向き合い、乗り越えたい。